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藏在語言中的日本古代人的世界觀

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古代より受け継がれる日本固有のことば、「大和言葉」。現代でも使われている言葉の語源をたどることで「大和言葉」の世界観が見えてきます。

藏在語言中的日本古代人的世界觀

“大和語言”是從古代傳承下來的日本固有的語言。即使是現代,通過追溯語言的詞源可以看出“大和語言”的世界觀。

今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-國際派日本人養成講座』では、著者の伊勢雅臣さんが、古代日本人の世界観とはどんなものであったのかを、さまざまな例から分かりやすく解き明かしています。

在這回的免費電子雜誌《Japan on the Globe-國際化日本人培養講座》中,作者伊勢雅臣給我們舉了各種各樣的例子,簡單明瞭的介紹了古代日本人的世界觀是什麼樣的。

大和言葉の世界観

大和語言的世界觀

目と芽、鼻と花、歯と葉、耳と実(み)、頬と穂(ほ)。顔と植物の各パーツが、まったく同様の音を持つ言葉で呼ばれているのは、偶然だろうか?

目和芽、鼻和花、齒和葉、耳和實(み)、頰和穗(ほ),臉和植物的各部分發音完全相同,這是偶然麼?

萬葉學者の中西進氏の説によれば、これらは語源が共通 しているからだと言う。漢字にすれば、まったく別の言葉のように見えるが、古代の日本人は、顔のパーツも植物のパーツも、「め」「はな」「は」「み」「ほ」と同じように呼んで、同じようなものと考えていたようだ。

據萬葉學者中西進先生稱,這是因爲這些詞語的語源是共通的。雖然漢字寫的完全不一樣,但是古代的日本人,不管是臉上的器官還是植物的器官,都分別發作「め」「はな」「は」「み」「ほ」的音,他們一直認爲那是相同的東西。

たとえば、鼻は顔の真ん中に突き出ている。同様に「花」も、植物の枝先の先端に咲く。そして岬 の端も「はな」と呼ぶ。薩摩半島の「長崎鼻」がその一例である、さらに「しょっぱな」「寢入りばな」など、物事の最初を表す意味も持つ。

例如,鼻子是臉部器官中突出的部分,同樣“花”也是,它開放在植物枝頭的前端。而且,海角的邊緣也讀作「はな」。薩摩半島的「長崎鼻」便是一個例子。還有「しょっぱな」(最初)「寢入りばな」(剛入睡)等,都有表示事物最初的意思。

「からだ」とは、幹をあらわす「から」に接尾語の「だ」がついたものである。「から」が植物にも使われた例は、稲の莖の「稻幹(いながら)」、芋の莖の「芋幹(いもがら)」などの言葉に殘っている。

「からだ」是由表示樹幹的「から」加上結尾詞「だ」組成的。「から」被用於植物的例子還有水稻的莖「稻幹(いながら)」,薯的莖「芋幹(いもがら)」等。

古くは手足のことを「枝(えだ)」と呼んだ。「手」「足」と呼び分けるようになったのは、奈良時代あたりからである。

古代,稱手腳爲「枝(えだ)」,從奈良時代開始才把手和腳分開來叫。

もう明らかだろう。我々の先祖は、植物も人體も同じものだと見なしていたのである。すべては「生きとし生けるもの」なのだ。こうして古來の大和言葉の源を辿っていくと、古代日本人の世界観が見えてくる。

已經明白了吧,日本的祖先認爲植物和人是一樣的。一切都是“活在這個世界上事物”。這樣一來,追溯古代大和語言的源頭就可以看出古代日本人的世界觀。

咲く、幸い、盛り、岬、酒

咲く、幸い、盛り、岬、酒

花が「咲く」のと、人の「幸い」も同根である。「幸い」は「さきはひ」で、「さく」と「はひ」に分かれる。「さく」は「咲く」である。ものがそのピークの狀態になることを意味する。ちなみに「花盛り」の「盛り」も、「さか」+「り」で、花が咲きあふれているピークの狀態を意味する。

開花的「咲く」和形容人的「幸い」也是同源的。「幸い」的古日語是「さきはひ」,被分成「さく」、「はひ」。「さく」是「咲く」,意思是事物達到它頂峯的狀態。另外,「花盛り」的「盛り」也是由「さか」+「り」組成的,意思是花盛開的頂峯狀態。

岬も「み(美稱)」+「さき」で、海や湖に突出した形狀の土地を指す。お酒の「さけ」も、酒を飲むことで、気持ちが高揚し、幸福感を抱く。

岬也是由「み(美稱)」+「さき」組成的,指凸向海和湖形狀的土地。酒的「さけ」也是如此,喝酒之後,情緒高漲,滿滿的幸福感。

「はひ」は「延ふ」で、ある狀態が長く続くことを指す。「味はひ」は、「あの人の言葉には味わいがある」と言うように、「長く続く味」を意味する。

「はひ」寫作「延ふ」,指某種狀態長時間的持續。「味はひ」在「あの人の言葉には味わいがある」中就有“長久持續的味道”的意思。

とすると、「さきはひ」とは「咲く」という花の満開狀態が「延ふ」、長く続く、ということになる。心が花開くような嬉しさが、持続的に続く狀態と考えれば、古代人がこの言葉に込めた語感がよく伝わってくる。

也就是說,「さきはひ」是花盛開狀態的長久延續。心中像花兒盛開一樣高興,從這種持續的狀態來看,古代人把包含在這個詞語中的語感很好的傳達了出來。

現代人は「幸福」とは何か、などと抽象的に考えるから、訳が分からなくなる。「さきはい」とは「心の中に花が咲きあふれて、長く続く狀態」と知れば、それはお金や地位などの外的物質的なものに関わりなく、純粋に心の有り様であることが分かるだろう。

現代人的幸福是什麼呢?如果從抽象的角度來考慮的話,就會變得意味不明。如果知道「さきはい」是指“心中的花兒盛開,長久的狀態”的話,就會明白這無關於金錢和地位等的外在物質,而是心中純粹的狀態。

人と草木の一生

人和草木的一生

草木が春に芽ぐむことを「萌える」と言う。「萌える」は「燃える」と同じで、火が盛んに起こった狀態を指す。「仕事に燃える」「燃える戀」などと、人が心の中で情熱を燃やしている狀態にも使われる。人が最も燃える時期が「青春」だが、同様に春に草木の生命力が盛んに燃えて、新しい芽を出すのが「萌える」である。

草木在春天發芽的狀態叫作「萌える」。「萌える」和「燃える」類似,指的是火燃燒的狀態。「仕事に燃える」「燃える戀」等也會使用於人的心中熱情高漲的狀態。人生中最燃的時期是「青春」,同樣,春天的時候草木的生命力是最旺盛的,所以新芽萌生的狀態就是「萌える」。

この後に、前述の「花盛り」を過ぎて、実が「なる」時期が到來する。「なる」は人にも使われて、現在でも「大人になる」「人となり」などと使われる。「なる」とは、そのものの生命力が発現された狀態を指した。

之後,跳過上述的「花盛り」(花盛開),來到実が「なる」(結果實)的時期。人們經常使用「なる」,即使是現在也經常在「大人になる」(成爲大人)「人となり」(爲人、本性)中使用,指這種生命力被發現的狀態。

やがて人も草木も老いて、生命力を失っていく。植物では水分を失ってしおれる事を「しなゆ」と言った。「ゆ」は自然にそうなる事をいい、「しぬ」は「萎(しな)える」、水分を失って、くたっとなった狀態を指す。「しぬ」は、人間の「死ぬ」にも使われているが、本來の意味は命が絶えた狀態ではない。

再不久,草木枯萎,失去生命力,這種植物失去水分的狀態叫作「しなゆ」(枯萎)。「ゆ」指自然發生的這種事情,「しぬ」是「萎(しな)える」,指失去水分、蔫兒的狀態。「しぬ」經常被用於人的「死ぬ」(死亡),但是它本來的意思並不是指生命停止的狀態。

植物の命が絶えるのは「枯れる」である。完全に水分が失われた狀態を指す。「枯れる」の古語は「離(か)る」と言い、人間で言えば、魂が體から離れることを言った。

植物的生命不再延續叫做「枯れる」,指的是完全失去水分的狀態。「枯れる」的古語是「離(か)る」,用通俗語言來說的話是靈魂離開身體的意思。

體から離れた死者の魂は、「ねのくに(根の國)」に戻ると古代日本人は考えた。「ね」は母なる大地である。そこから、人も草木もまた「たね」を育み、「め」を出し、「はな」を咲かせていくのである。

古代的日本人認爲死者的靈魂是會回到「ねのくに(根の國)」(黃泉)。「ね」指的是母親大地。從那裏孕育了人 、草木、種子,誕生萌芽然後開花。

「生きる」「息」「命」

「生きる」「息」「命」

「生きる」「息(いき)」「命(いのち)」は、どれも「い」で始まっている。「いきる」の古語は「いく」であるが、これは息(いき)と同根である。息をすることが、生きることである。だからこそ、息をする器官である「鼻」が、顔の中心だと考えられたのである。

「生きる」「息(いき)」「命(いのち)」的發音都是以「い」開頭的。雖然「いきる」的古語是「いく」,但和「息」(いき)是同源。人有呼吸就是活着,因此一般認爲負責呼吸的器官“鼻子”是臉的中心。

「いのち」の「い」は、「生く」「息」と同じである。そのほかにも、「い」は「忌(い)む(慎んで穢れを避けること)」「斎(いつ)く(神などに仕えること)」など、厳かな意味を持つ。

「いのち」的「い」是和「生く」「息」相同的。除此之外,「い」還有「忌(い)む」(謹慎的避諱)、「斎(いつ)く」(侍奉神祗)等比較嚴肅的意思。

「いのち」の「ち」は不思議な力を持つもの、すなわち霊格を表す言葉で、「おろち(大蛇)」「いかづち(雷)」「ちち(父)」などに使われている。生けるものの體內を流れる「血」も、不思議な力の最たるものであった。

「いのち」的「ち」是指擁有不可思議力量的東西,也就是表示精神水平的語言。用於「おろち(大蛇)」「いかづち(雷)」「ちち(父)」等。生物體內流淌的「血」也是一種極其不可思議的力量。

この「ち」に「から(そのもの)」を合わせた言葉が「ちから(力)」である。「ちち(乳)」も、生命を育む不思議なちからを持った存在である。

這個「ち」與「から(そのもの)」組成了詞語「ちから(力)」(力量)。「ちち(乳)」也是一種擁有孕育生命的不可思議力量的存在。

したがって、「いのち」は「忌(い)の霊(ち)」とでも言うべき、忌み尊ぶべき霊力である。そのような尊厳ある「いのち」が、草木や人間に宿っていると、古代の日本人は考えたのである。

因此,「いのち」應該說成「忌(い)の霊(ち)」,表示應該避諱尊敬的靈力。古代的日本人認爲,這樣尊貴的生命是寄於草木和人之中的。

「ねがふ」「いはふ」「のろふ」

「ねがふ」「いはふ」「のろふ」

求婚することを古代の日本語では「よばふ」と言った。「よばふ」とは「呼ぶ」+「ふ」で、「ふ」は継続を意味する。戀人の魂を「呼び続ける」ことである。

“求婚”在古日語中叫作「よばふ」。「よばふ」是由「呼ぶ」+「ふ」組成的,「ふ」由繼續的意思,所以整體的意思爲持續呼喚戀人的靈魂。

同様に「妻子の幸せを願う」などと言う時の「願う」は「ねぐ」に「ふ」がついた言葉で、「ねぐ」とは「和らげる」という意味。神様の心を和らげて、何度もその加護を願うことだった。神職の一つに「禰宜(ねぎ)」があるが、これは神の心を和ませて、その加護を願う仕事を指す。

同樣「妻子の幸せを願う」的「願う」是「ねぐ」加上「ふ」,「ねぐ」的意思是「和らげる」(使柔和,緩解)。感化神靈的心,多次祈求神靈保佑。「禰宜(ねぎ)」(禰宜)是神職的一種,它是工作是感化神靈之心祈求神靈保佑。

同様に、「いはふ」は「言う」を続けること。神様を大切にする気持ちを繰り返し言うことで、これが「斎ふ」という言葉になった。

同樣,「いはふ」是持續「言う」(說)的意思。是一種懷着對神靈的敬重之情反覆說的狀態,最後形成了詞語「斎ふ」(向神祈禱)。

「のろふ」は、「のる」+「ふ」で、「のる」を続けることである。「のる」は「祝詞(のりと)」、「名のり」などに、殘っているように、「重大なことを告げること」を意味する。転じて、神様の力を借りて、相手にわざわいをもたらそうとするのが「のろふ」である。

「のろふ」是由「のる」+「ふ」組成的,是持續「のる」的狀態。「のる」像「祝詞(のりと)」、「名のり」一樣,有“告知重大事情”的意思。然而,「のろふ」還有藉助神靈的力量,想要給對方帶來災禍的意思。

日本の神様は、それぞれに支配する範囲が決まっていて、時おり、その地に降りてきて、人間の「ねがひ」「いはひ」「のろひ」などを聞いてくれる。その神様に出てきて貰うために、笛を吹いたり、囃したりし「待つ」ことが「まつり」だった。その動詞形が「まつる」である。古代日本人にとって、神様とはそのような身近な具象的な存在であった。

日本神靈各自所支配的範圍是決定好的,有時候它會降臨到自己所掌管的地區問問人們的「ねがひ」「いはひ」「のろひ」。爲了讓神靈能夠降臨世間,人們會吹笛子、拍手叫喊,來「待つ」(等)神靈,這就是「まつり」(祭祀儀式)。它的動詞形式是「まつる」。對於古代的日本人來說,神靈就是身邊的一個具體化的存在。

「天(あめ)」「雨(あめ)」「海(あま)」

「天(あめ)」「雨(あめ)」「海(あま)」

そうした神様の元祖が「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」である。「天(あめ)」の「御中(みなか)」にいる「主(ぬし)」である。「天(あめ)」は「海(あめ)」でもあった。「天」は「海」のように青く、そこからときおり「雨(あめ)」が降ってくる。そんなことから、古代日本人は天には海と同じような水域があると考えたようだ。

這些神靈的鼻祖是“天之御中主神”。是上天的主人。「天(あめ)」也是「海(あめ)」。天空像海一樣藍,天上有時會下雨,由此古代的日本人認爲天是和海一樣的水域。

水が大量にある所を「海(うみ)」と言う。「うみ」は、昔は「み」とも言った。「みず」の古語は「みづ」だが、これも同じく「み」と言った。一面にあふれることを「みつ(満つ)」と言う。

人們把有大量水的地方稱之爲「海(うみ)」。「うみ」在古代也叫做「み」。雖然「みず」的古語是「みづ」,但是同樣會說「み」。人們還把充滿狀態叫做「みつ(満つ)」。

この「みつ」から「みづみづし」という言葉も生まれた。「瑞穂(みずほ)の國」とはわが國の古代の自稱であるが、水を張った水田に青々とした稲穂が頭を垂れている姿は、古代日本人のふるさとの原景なのだろう。

從「みつ」衍生出了「みづみづし」這個詞。「瑞穂(みずほ)の國」是我們國家在古代對自己的稱呼,描繪了水田上青青的稻穗低着頭的姿態,這應該是古代日本人生活的景象吧~

和歌は日本人の固有な韻文 に対する自負と誇り

和歌是日本人對固有的韻文所持有的自負和自豪

以上のような大和言葉で歌われるのが、和歌、すなわち「日本の歌」である。和歌は神様を褒め稱えたり、戀人に思いを伝える時に使われる特別な形式であった。

用以上的大和語言所唱的歌叫作和歌,也就是“日本之歌”。和歌是在稱讚神靈、向戀人表達思念之情的時候使用的特別形式。

「いのち」という言葉に根源的な生命力を感じたり、また「戀」という言葉に、相手の魂を乞う、そのような濃密な語感を込めて、和歌は神や戀人に思いを伝えるものであった。

從「いのち」這個詞中可以感受到靈魂深處的生命力,「戀」這個詞中含有渴望對方靈魂這樣濃厚的語感,所以和歌是向神靈和戀人表達情感的方式。

そのような和歌を集めた歌集として、現存する最古のものが萬葉集である。雄略天皇(第21代、5世紀後半)の御歌から始まり、農民や兵士など一般庶民の歌まで収められたまさに「國民歌集」であるが、その中に使われた外來語は16語くらいしかない。

這種收集和歌的現存最早的歌集是萬葉集。從雄略天皇(第21代、5世紀後半期)的御歌開始,把農民、士兵等普通百姓的歌也收錄在其中的正是《國民歌集》,這其中使用的外來語只有16個。

萬葉集は、歌い手としては天皇から一般庶民に至るまで區別なく登場させているが、外來語は排除し、「大和言葉」で表現された思いを集めようとする意図が徹底されているのである。

萬葉集中從天皇到普通百姓都作爲歌手登場,徹底的表現了不用外來語而用大和語言來表達情感的意圖。

現存する日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』は、萬葉集とほぼ同時期に編纂されている。その時期に我が先人たちは中國から入ってきた漢詩に対抗して、外來語を排して大和言葉だけの和歌集を編んだ。

日本現存最早的漢詩集《懷風藻》幾乎是與萬葉集在同時期編纂的。那個時期日本的先人反對從中國傳來的漢詩,不用外來語,只用大和語言來編纂和歌集。

日本語は歴史的に中國や西洋の概念用語も積極的に取り入れつつ、最先端の科學技術論文にも使われている現代的な論理的言語となっている。と同時に、その根源にある大和言葉は太古の日本人の世界観・人生観をそのままに伝える詩的言語である。

日語隨着歷史的發展,也漸漸地積極引進中國和歐洲的概念用語,成爲了一種被使用於最先進的科學技術論文中的現代倫理語言。與此同時,作爲根基的大和語言是一種原原本本的傳達太古時期日本人的世界觀、人生觀的富有詩意的語言。

翻譯爲滬江日語原創,未經授權嚴禁轉載。

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